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東国万葉の声は響き、使用人が持つ洋菓子店の箱を覗き込んでいた航にも聞こえた。
とりあえず、気になったほうじ茶プリンを選んでそちらを見る。
そして驚いた。
全員が航を見ていた。
「え、なんで?」
航は光也に尋ねた。
一番聞きやすかったこともあるが、自分に何かなければ光也が自分を見るわけがない。
「就職が決まった」
そして、知っているなら必ず答える。
誤魔化したり、思わせぶりなことを決してしない。
実花相手なら別だろうが、自分を相手にする時間は最短にしたい男だ。
「へえ、藤宮への就職が決まったのか。いや、この場合は転職だろう」
めでたいことだと笑って気づいた。
光也が藤宮に来るとなったら、誰がいまの会社の社長になるのだ?
いま、会社の業績は良い。
しかし、この業績は光也が社長だからということもある。
東国のグループ会社の一つ。
<「ちょっと待て」「何です?」「俺が実花に『お嫁さんになりたい』と言われなかったことに満足していないか?」「そうですが、何か?」あっさりと肯定する光也に実篤は笑う。「残念だったな。実花はすでにそれを一ノ瀬恒一に言っている」光也がとても嫌そうな顔をする。そして。「自分がショックを受けることは言わないほうがいいのでは?」光也にそう言われる実篤も嫌そうな顔をしていた。実花も自分の黒歴史を掘り起こされた気がして嫌な気分だった。三人が三人ともその様子だったので。「ノーカンにしたら?」真理の提案に三人は即座に頷いた。.「一ノ瀬恒一って、まだ実花の婿になれると思っているの?」そう言って真理は光也と実篤を交互に見る。「このダブルブロックをどう攻略するつもりなんだろう」真理の不思議そうな言葉に実花は苦笑する。「彼は二人を攻略すると考えていないの。まだ私が彼を好きで、彼のお嫁さんになりたがっていると思っているの」「……おめでたくない?」「でも、きっとそうなのよ」実花は肩を竦める。「どうして好きになったのか、今となっては分からないの」それは本当のことだ。前の生でも、今の生でも、恒一と出会ったとき、実花は甘い感情を抱いたのだろう。その後しばらくは恋にのぼせ、恒一のする全てに幸せを感じたはずだ。でも、美鈴の登場で甘いものはどんどん苦くなった。(でも……)婚約を白紙にしたら、父親に怒られるかもしれない。婚約を破棄されたら、父親に失望されるかもしれない。自分なんかと結婚してもいいと思う男性は誰もいないに違いない。それならばこのままと……。「ただ執着していたんだと思う」「執着?」「この人がいなければ一人ぼっちになるとか……そんなこと……」
「初めまして、東国万葉です」「瀬名航です」名乗ったあと、航は少し照れ臭そうに笑う。「顔は見たことがありますが、こうしてお話しするのは初めてですね」「そうですね」「てっきり俺も、光也とセットで嫌われているのかと……それなりに嫌がらせとかしていたでしょう?」航の言葉に「まあ」と万葉は笑う。「若気の至りですわ」そう言って頬を軽く染める万葉。軽く遠い目をして苦笑いをする航。(……どんなことをされたのかしら)実花は窓辺で語らう二人から、隣に座っている光也に視線を移した。平然とした顔でコーヒーを飲んでいる。「なんだ?」「万葉さんから、どんな嫌がらせを受けたのですか?」「まあ、色々あるが……その前に」「はい?」「なぜ、彼女を『万葉』と呼ぶ?」「万葉さんも『東国さん』と呼んだら、東国さんと混じってややこしいではありませんか」「それなら俺も名前で呼んでほしい」実花が首を傾げる。「東国さんと万葉さん、区別できていると思いますよ?」「そういう問題では……」「黙ってくれないか、東国君。万葉さんたちの会話が聞こえないじゃないか」会話に割り込んだ実篤を光也は呆れたように見る。「他人の恋愛を見て、何がおもしろいんですか?」「紹介した責任がある」実篤の言葉に高峰も重々しく頷いている。「二人ともいい大人ですよ?」「いくつになろうとも、年長者の導きは必要だ」(……年長者)実篤の言葉に、実花は万葉を見る。万葉と航からはぎこちなさが消え、二人とも楽しそうに会話をしている。素晴らしい社交術だと思った。光也と実篤の会話に気を取られ、二人の会話を聞き逃したことが悔やまれた。「やはり、あの急なヨーロッパ出張はあなたの策略でしたか」「ええ。あのパーティーに光也を参加させたくなかったの」「いや、そもそも光也は東国の後継者になるつもりはないんで」「今なら分かるけど、実花ちゃんに会うまでの光也は『それも悪くない』って態度だったじゃない」「まあ、そうですね」万葉が大きくため息を吐く。「こっちは当主になりたくって堪らないのに、女ってだけでその資格がないのよ」「今どき化石みたいな考え方ですよね」「本当に。実篤様を見習うべきですわ」「実篤様……万葉さんも、藤宮のご当主が好きなんですね」「ええ、とっても」(……お見合い相手に
――採用!東国万葉の声は響き、使用人が持つ洋菓子店の箱を覗き込んでいた航にも聞こえた。とりあえず、気になったほうじ茶プリンを選んでそちらを見る。そして驚いた。全員が航を見ていた。「え、なんで?」航は光也に尋ねた。一番聞きやすかったこともあるが、自分に何かなければ光也が自分を見るわけがない。「就職が決まった」そして、知っているなら必ず答える。誤魔化したり、思わせぶりなことを決してしない。実花相手なら別だろうが、自分を相手にする時間は最短にしたい男だ。「へえ、藤宮への就職が決まったのか。いや、この場合は転職だろう」めでたいことだと笑って気づいた。光也が藤宮に来るとなったら、誰がいまの会社の社長になるのだ?いま、会社の業績は良い。しかし、この業績は光也が社長だからということもある。東国のグループ会社の一つ。同じグループなのだから協力し合えばいいのに、出る杭は打たれる運命にあるのかグループ内の他会社からいろいろ妨害がある。その妨害の全てを、光也が一手に引き受けて、跳ねのけている。嫌がらせを受けても傷一つつかないタフな精神を持ち、必要とあらば、東国の名も自分の顔も躊躇なく使う。(そんな奴いるか?)社員は誰も彼も優秀だ。元々優秀な人材が多かったが、光也によってブラッシュアップされている。だが、だからといって社長になれるわけではない。社長としての優秀さはそれとは別だ。(必要なものが飴か鞭かを瞬時に見極め、他人を遠慮なくこき使い、電話が鳴り続けていても今日はもう終わりと無視して帰れるくらいの図太さが……いないだろう)会社はどうする。「いや、俺ではない。確かに俺はいつか辞めるが、今ではない」「そうなのか」就職が決まったのは、光也ではない。実花も真理もまだ高校生で、
「……婿?」実花は首を傾げた。先ほどの話では、万葉が婿と言ったら父の実篤になる。だが、実篤は目の前にいる。だから「どこだ」はおかしい。首を捻る実花の耳に実篤の声が届いた。「高峰、彼を呼んでくれ」(……彼?)誰のことだろうか。実花は光也を見た。目が合った光也は肩を竦め、知らないと言っている。一方で、その隣にいる真理は何か知っているらしい。「……真理」「すぐに分かるよ」実花の質問に答えず、真理は残っていたプリンを食べきった。よくあの騒ぎでも食べ続けていたなと感心した。「……真理?」一方で、万葉は真理を驚いたように見ていた。「真理って……」万葉は真理をじっと見る。「よく見ればその顔立ち……あなた、篠原家の?」「あ……」実花は自分の失言に気づいた。今の真理は、実花から見れば普段通りだが、今日は男性的な服装をしている。(男であることを隠していたのに……)実花は万葉の気を逸らさなければいけないと思った。だから。「そんなことよりも」自分でもあざといなってくらい、可愛い声を出す。「お義姉様」実花の作戦はうまくいった。首が吹っ飛ぶのではないかと思うくらい、勢いよく万葉がこちらを見た。「み、実花ちゃん、も、もう一回……聞こえなかったから、もう一回……あっ」「え?」「ちょっと待って」万葉は手のひらを実花の目の前に出す。そして鞄を漁りはじめた万
東国万葉。光也と真理の異母姉で、数多くいる東国家の子どもたちの長子。(お父様が東国家の後継者に相応しいと仰っていた人物……)実花は万葉をじっと見た。(……なのよね?)実花が疑問に思うのは仕方がない。なぜなら。「実篤様、お久しぶりですわ」語尾にハートがついているどころではない。乱舞しているハートが見えるような弾んだ声。「ああ、久しぶりだな」実篤の言葉に、万葉が頬を染める。「相変わらずのイケボ。そしてイケオジ。こうしてお家に招いてくださるなんて、本当に嬉しいですわ」「いや、君が来るというから……」「チャンスは掴んで離さない主義ですの」そう言ってにっこり微笑む美女。光也も万葉も、どちらも母親似だからか、顔立ちは似ていない。だが。「東国君と姉弟であることをヒシヒシと感じるな」実篤の言葉に思わず実花は頷く。その動きで気づいたのか、万葉が実花に気づく。そして、満面の笑顔になった。「藤宮実花さんね」「は、はい」「ずっと会いたいと思っていたの。東国万葉です、これからもよろしくね」会えたことが嬉しいと分かる笑顔。柔らかく優しい声音。「よ、よろしくお願いします」「緊張しちゃって。実花ちゃん、可愛い!」ギュッと抱き着かれて、実花は内心で喜びの悲鳴を上げた。そんな実花に光也は呆れる。「俺の母のときといい、君はオバ……年上の女に弱いな」光也は言い直したが、実花は許さなかった。「東国さん、女性に失礼ですよ」「……すまない」納得しかねる顔をしていても謝る光也。その様子に万葉はキョトンとし
実花がデザートを食べ終えたタイミングで、実花のスマートフォンが鳴った。実篤からのメッセージが届いていた。【食事が終わったら帰ってきなさい】「お義父上は何と?」なぜ分かったのかと実花は首を傾げる。「何となく。君が食べ終わったタイミングで来たというのに作為的なものを感じる」「それは、さすがに偶然では?」そう言って笑う実花に、光也は肩を竦める。「試してみよう」「どうやって?」「追加のデザートを頼もう。プリンは好きか?」実花が頷くと、光也が店員を呼ぶため手を上げた。給仕してくれた店員とは違う。フロアのチーフで、実花もよく知る店員だった。「はい」光也の横に立ったものの、店員の彼は実花に会釈する。実花も会釈を返す。「追加で、プリンを頼む」「……かしこまりました」妙な間があった。(そう言えば)この店のデザートにプリンなんてあっただろうか。なかった気がする。そう思っていると、先ほど席を離れた店員が戻ってきた。それと同時に、実花のスマートフォンが鳴る。「申し訳ありません。当店はプリンを提供しておりません」【お前の好きそうなプリンを買ってきた。丁度いいから皆で食べよう】偶然で片づけるにはタイミングが良すぎる。実花は思わず店員を見た。顔なじみの店員。実花とそうであるということは、実篤とはもっと懇意だということだ。「お手数をおかけしました」「……えっと」実花が頭を下げると、店員は苦笑した。「私にも同じくらいの娘がおりますので、藤宮様の心配はよく分かります」店員と目が合った光也は肩を竦めた。その仕草がまた様になる。「俺の義父になる人は、求める理想のハードルが高くて困る」「背面飛びをなさってみては?」揶揄うような店員の言葉に、光也がふむと考える。「体育の授業でやった程度だが、百六十センチと少しくらいなら飛べたな」なんでもないことのように言うので、実花は「そうなんですね」と流そうとしたが。「そんな凄いことをサラッと……宝飾品のデリバリーと言い、藤宮様のご心痛をお察しします」店員の感心と、実篤への妙な同情に実花は驚いた。「百六十センチって、すごいのですか?」「走り高跳びはかなり技術が必要なので、身体能力だけでそこまで飛べるのはすごいですよ」「……なるほど」実花が納得する向かいで、なぜか光也も「そうなのか
「お嬢様、今日は髪をまとめて、首元を見せてみたらいかがでしょう」その一言は、何気ない提案のようでいて、実花にとっては奇妙な重みを持って響いた。前世の記憶が一瞬でよみがえる。一ノ瀬恒一は、実花が髪を上げることを好まなかった。首筋が露わになることを「下品だ」と言い、社交の場で他の女性が髪をまとめているのを見ては、どこか見下すような言い方をしていた。その言葉を、実花は何度も正解として受け取ってきた。だから彼の前で一度たりとも髪を上げたことはなかった。それが「好かれるための正しさ」だと信じていたからだ。だが今、その記憶は違う形で胸に残っている。「……いいわね」返事はすぐに出なかった。
使用人が用意したドレスを、実花は静かに見下ろしていた。白に近い淡紫色。光の当たり方によってはほとんど白にも見えるその色は、藤宮家の「清楚な娘」であることを象徴するために選ばれたものだった。上品で、柔らかく、誰から見ても好印象を与える色。前世の実花はこの色を疑うこともなく、むしろ一ノ瀬恒一の好みに合うだろうと信じて、少し誇らしげに選んでいた記憶すらある。彼に選ばれるための自分を作ることに、何の疑問も抱いていなかった。だが今、その淡い紫はまったく違う意味を持って見えていた。それは「清楚」の象徴ではなく、「従順」の象徴だった。良い娘であること、良い妻になること、それらの言葉に守られているよう
まぶしさで目が覚めた。実花は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏に残る白い光の余韻がゆっくりと引いていき、代わりに柔らかい感触と静かな空気が意識へと染み込んでくる。身体を包んでいるのは上質なシーツで、布地は肌に吸い付くように滑らかだった。鼻腔を満たすのは、微かに甘く落ち着いた香り。高価な調度品に染みついたような、整えられた空間特有の匂いだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは見慣れた―――けれど今の自分からは遠く感じる藤宮邸の一室だった。咄嗟に窓の外を見る。そこには、過剰なまでに手入れされた庭園が広がり、剪定された樹木と計算された配置の花々が、まるで絵画のような均整を保ってい
あの夜は、ただ変な声がして目が覚めただけだった。夢と現実の境目がまだ曖昧なまま、痛みでふらつく頭を押さえながら実花は一人で寝ていた寝室からゆっくりと廊下へ出た。冷えた床の感触が足裏に伝わるたび、意識が少しずつ現実へ引き戻されていった。声のする方へ向かったのは、意志というより反射に近かった。何が起きているのかを考える前に身体が勝手に動いていた。そして、すぐに分かった。何の声か。何の音か。理解してしまった瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。美鈴の甲高い声は快感を訴え、「もっと」と甘えるように揺れていた。それに応える恒一の唸り声は理性を削ぎ落とされた獣のようで、実花の知る“夫”という存在







